「浪人」この言葉にはあまりよいイメージがないのが普通でしょう。私も昔、特に高校時代は灰色のイメージしかありませんでした。そしてその気持ちがとても強かったためか?大学は現役合格を勝ち取りました。しかしその当時、国立大は失敗したので「浪人」してもう一度国立大を目指すかで悩みました。一応は広島の予備校に入学願書を出して、クラス分けテストも受けに行きました。そのクラス分け試験の途中で家から連絡があり、私立大の合格を聞きました。そして悩むことなく東京に出ることになったのです。それが32年前のことです。その後ずっと「浪人」という言葉は私の頭の中では記憶の引き出しの奥底にしまわれて再び耳にすることはありませんでした。
時を経て30年。子供たちが大学受験、高校受験など自分の過去と重なる頃になると再びその言葉の重みがじわじわと感じられるようになってきました。普通ならプラス1年の家計も大変だし、来年に再チャレンジしたからといって今年よりいい結果が出るとも限らないし、また少子化で選びさえしなければ大学全入時代でどこかには入れる時代です。いい大学を出たからといっていい就職ができるとも限らないなどなど最も自分に都合のいいような理由を並べて自分に納得させようとする若い世代。「浪人」したからといってゆとり教育被害者世代が来年から脱ゆとり世代との直接対決を控えた今年は、現役でどこかに滑り込みセーフを狙っている風潮も強いようでした。
しかしなぜ今「浪人」にこだわるかといえば、当時大学に入学しても私立大医学部のため3浪や4浪もかなりいて現役は4分の1程度でした。その当時は「浪人」経験者がとても大人に見え人生経験豊富にも見えました。今から思えばたわいもない話なのですが、当時の自分にとっては大きな問題でした。卒業して働き出すと忙しさにかまけてまた当分の間「浪人」は忘れていましたが、最近「もし・・・だったら」というフレーズが頭の中によくよぎるようになってきました。これはある程度人生経験を積んで自分の限界もある程度わかってしまい、夢はもち続けたいけれどもこれからの残りの人生のゴールが少しずつ見え隠れしてきたからかもしれません。「あのとき、もし俺が浪人して国立大に行っていたら、今は研究者になっていたかも?」とか「大学教授を目指していたかも?」などと空想にふけることもあるわけです。事実は異なりますが、可能性を考えてしまうわけです。今頃になって「浪人してもよかったなあ。そうしたら違う人生を歩んでいたかも??」と思うわけです。「もう1年間勉強するのが面倒くさかっただけで惜しいことしたなあ」と思ってしまう今の自分が頭の片隅のどこかに潜んでいるのも事実なのです。
今回、長女が「浪人」することになりましたが、今までの自分の経験から「1年間は自分の夢を追い求めるための勉強に打ち込むだけでいいのだからある意味幸せだよ。できることなら自分が代わりたいよ」と言うもう一人の自分がいます。「娘よ!長い人生に比べりゃ1年なんて屁みたなもの!いい人生経験できるよ」と送り出してやろうと思っています。