日本は今いろいろな困難に直面していますが、今回は日本人と外国人の違いについて考えてみたいと思います。東日本大震災のときの海外のメディアが日本人の行動について一斉に称賛したことは記憶に新しいことと思います。緊急時に人間としてお互いに助け合うことは万国共通です。避難所の生活で寒い中で配給される食べ物をじっと待つ姿、まさに「おしん」ですが、その姿こそ日本人の世界に誇れるものだと海外のメディアが盛んに報道していました。もしこれが近隣諸国の国だったら暴動になっていたでしょうし、あの世界の警察官と自負している国でさえ、ハリケーンに見舞われた時は略奪や暴動が起こっていました。そこに見えてくるものは日本人が日本人として先達が築きあげてきたもの、質素で倹約、そして何よりも他人に対して恥をさらすことは死に値して切腹も辞さないとする武士道の精神ではないかと思います。
今回の震災で東京でも帰宅難民がじっと我慢して列をなしていつ来るともわからない電車やバスを待っている姿も象徴的でした。そこにはルールは守るものであって破るものではない。一度決めたらそのルールは変えるよりも維持することの方が重要だという日本人の基本姿勢が現れています。ですからマッカーサーがもってきた日本国憲法を時代に合ったルールに自分たちで変えることさえ60年間しないで、どうやって守っていくかを考える国民性なのでしょう。誤解のないように付則しておきますが、憲法9条は維持することが大前提ですが、今の時代に合わせた文言にしなければいけないと思います。学校教育も今まで築き上げてきた日本の伝統を子供たちに授けなければなりません。しかし日本が明治以降に戦争をして近隣諸国と軋轢を残した事実を教えるのは、いつも3学期の終了ギリギリで時間不足で我々の中高校時代にははしょられてきました。お決まりの如く縄文時代から始めて直接現在の日本が直面する戦後問題は最後まで後回しにされていました。現在の日本の歴史での戦後教育はどこまでウェートがあるのか詳細は知りませんが、もっと時間をさいてもいいのではないかと思いますが、皆さんどう思われますか。一方、近隣諸国はしっかりとしたたかに国民を誘導して、間違っていても正しいと自己主張してきます。
また日本では皆が正しいことをするという前提の性善説を唱えます。一方、外国では人間は愚かなもので過ちを犯すという前提で性悪説をもとにして動きます。武士道精神に照らせば性善説の方が合致していますが、最初から嘘をつくものだと思って行動している外国人とやりあって競争すればどちらが置いてきぼりを食らうのかは自明の理でしょう。日本人が日本人として築き上げてきた素晴らしい伝統を捨てることはあまりにもったいないけれども、相手に対して主義主張をせずに「まあ、まあ、まあ」と足して2で割り、相手がごり押ししてきたらめんどうくさがって丸く収めるというような行動は変えていく必要があると思います。そのためにはやはり学校教育に力を注ぐことが今一番重要なのではないかなと新年度早々思っています。