平和への願い

今年は原爆投下から67年が過ぎました。毎年、NHKの朝の連続テレビ小説の時間がずれて全国に広島からの生中継に切り替わります。毎年、同じアングルでの中継ですが、ゆく年くる年と一緒で毎年の同じ思いとは別に新たな異なる思いも交錯します。私は戦後生まれで、両親と違って原爆投下や戦争を知りません。社会の教科書やテレビでしか事実を知りません。しかしこの事実を永遠に後世に伝えていかなければならないと思っています。

今までに原爆資料館や平和記念公園に行ったことはありますが、身をもって体験したことではないためなかなかピンとこないことも多々あります。そこで今までに教科書以外で原爆に関して関わったことが何かあったろうかといろいろ記憶をたどってみましたがなかなか思い当りません。直接関係したことではありませんでしたが、唯一関連したことを思い出しました。それは中学1年のときクラスで「はだしのゲン」という劇をしたのです。なぜそのような経緯になったのかは記憶が定かではないのですが、その当時の大学を卒業したての新米の国語の恩師で、現在某中学の校長をされていて現在親しくさせていただいている先生が「はだしのゲン」の脚本を書かれました。そして2-3週間放課後に劇の練習をして全校集会のときに発表しました。その時の記憶を最近恩師に「先生、はだしのゲンの劇を覚えていますか?」ぶつけたところやはりよく覚えていらっしゃいました。私はその時は舞台の裏方にまわっていたように思います。自分の同級生で最近このブログを通して再会したK君が主役のゲンを演じました。内容はあまり覚えていません。また当時、戦争の悲惨さを感じながらこの劇に取り組んだわけでもありません。でも自分の心の中に何か残っているものがあるわけです。勿論、戦争体験者の気持ちを理解したくともなかなか理解できないのですが、記憶に残るいい授業だったと今になって思っています。

昨年、鹿児島に行ったとき知覧の特攻隊の遺品などを見学してきました。その時に特攻隊出陣の前夜に両親に書いた手紙を読んでいくうちに、心がどこに飛んで行っていいのか行く場所がわからない自分がいました。それだけその文字に魂が込められていたからでしょう。地元の周南市にも大津島という島があり、そこには回天記念館があります。あの人間魚雷の基地だった島です。最後に大津島を訪れたのは私が高校の頃だったと思います。考えてみれば地元にも忘れてはいけない、また後世に伝えていかなければならないものが残っていることを忘れていました。情けないことにそこにはもうかれこれ30年足を運んでいませんでした。近いうちに子供たちと一緒に訪れたいと思っています。

戦争のような大きな過ちは禍根をのこすと先日のブログで書きましたが、その禍根を後世に伝えて同じ過ちを繰り返さないようにしなければなりません。自分たちの世代は戦後世代ですが、決して他人事にしてはいけないと思います。それでは何をしなければいけないかについては人それぞれ異なると思います。唯一できることは、個人個人がその記憶を風化させずに残していくことではないでしょうか。

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