先日、32年ぶりに小学校と中学校で9年間一緒に過ごした同級生と再会しました。中学校の同窓会の件で少々お力添えを依頼するためです。その方とは小学時代はよく家に遊びに行っては上がりこんだり、近くの富田川で遊んだり、山の中で基地と称してターザンごっこをして遊んだりしました。少年時代の無二の親友と呼べる存在でした。今回32年ぶりの再会でしたが、自分の視界に入った瞬間、遠くからでも一目でわかりました。また外見は変化しても仕草や話し方などはほとんどその当時と変わっていません。
無二の親友……? 以前から無二の親友という言葉について疑問を抱き続けていましたので、少し私見を混ぜながら述べたいと思います。まずは「親友と友人ってどこが違うの?」「親友は親しい友人でしょ」という答えが聞こえてきそうです。「じゃあ無二の親友なら?」「二人といない親友ってこと?」でしょうか。
しかし昔はとても仲が良く自分の人生について大いに語り合った親友でも、年月が経ち仕事や環境が変わるといつのまにか年賀状だけのやりとりになっている無二の親友って結構いたりしませんか?「それって今でも無二の親友?」という疑問を感じざるをえないのです。昔の親友や無二の親友を否定する気などないのですが、悩んでしまうのです。
無二の親友を語る際には、太宰治の「走れメロス」について少し語らなければならないでしょう。読者の方は「やはりそこから攻めてきたか」と思われているかもしれませんね。簡単にメロスのあらすじをかいつまむと、メロスの友人が処刑されるメロスの身代わりになり、メロスはその友人の期待に答えるべく心の葛藤と戦いながら親友のもとに戻るというお話です。つまりそういう場面での友人を無二の親友と定義してしまうと、我々の無二の親友はただの「少年時代の友人」かもしれません。しかし人それぞれ心の中にはいろいろな場面、時代での友人がいます。その中での一人ひとりは二人といないかけがえのないその時代時代の親友のはず。それが未来になり返信が途絶えたとしてもその時代の無二の親友でいいのではないかと思うようになってきたのです。昔だったら、「一度途切れた友情は親友にあらず」と思っていた自分でしたが。だから今の自分の心の中には無二の親友がそこにもあそこにもそっちにもあっちにも時代から時代にたくさんいます。大人になり仕事を始めると、どうしても仕事関係の友人というか同志が増えます。同業者の友人関係は比較的簡単に増えていきますが、少年時代に知り合って共にその時代を過ごしたというような友人はなかなかいません。
意味は少し異なるかもしれませんが、「現在の無二の親友ってもしかしたら、家族なのかなあ?」って思うことがよくあります。血縁関係があるかないかの違いですが、ある意味、無二という思いは一緒かなあって思います。これからもすばらしい無二の親友、家族を大切にしていきたいですね!
遠く離れて暮らしていると、故郷の話題には敏感になります。
地元で頑張っている人の話を聞いたときは自分のことのように嬉しくなります。地元、広く言えば山口県のニュースや旅番組などにはつい惹きつけられます。また、私たちと同じように地元を離れて暮らしている人、仕事に打ち込んでいる同級生などに会えた時は尚更嬉しいデス。
“故郷は遠くにありて…”というのはまさにその通りだと。
私たちもここでの暮らしは24年目を迎えました。考えればこちらでの生活のほうが長くなりつつあります。でも、どんなに長く会っていなくても、一瞬であの頃(青春時代というと古臭い?)に戻れる友達って本当に大切ですてきな存在です。
それが“無二”と言える人なら尚更…ね!
K&N さま
いつもブログを読んでいただきありがとうございます。50歳近くなるとこれからの先が見えそうで見えない時期で何かと考えることが多くなってきます。先のことも昔のことも。今回、同窓会のお世話をしているといろいろな情報が入ってきます。例えば故人の情報など。でも得るものも多いです。特にこのようブログで再開できるなんてね。先日、Hさんと15年ぶりにこの同窓会の件でお会いしました。やっぱり全然変わってませんでした。 椎木