「無職と呼ぶな、働く気がないだけや」と何かの雑誌に掲載された日本一忙しいニート「島田紳助」の一文が妙に気になりずっと考えていました。普通は無職とかニートと聞いて良いイメージを抱く人はあまりいないでしょう。だから紳助さんもそう反論したのかもしれません。しかしその後の「働く気がない」という表現はとても含蓄があるように思えてずっと頭の中に残っていました。私の場合、「仕事は放棄できないしやらなければならない」でも「10億円あれば仕事なんてやめて好きな事をしたい」では「自分の好きな事とは何だろう」もし「やりたい事がなくて怠惰な生活をするくらいなら元の生活で細々と生きていた方がいいのではないか」と堂々巡りになってしまうのです。30年も同じ職業に就くと他の芝生が青く見えて自分お家の庭の芝生は枯れているように見えます。本当は枯れてないと思うのですが、そのように見えてしまうのです。生涯を捧げるだけの仕事のことを神から送られた贈り物という意味でギフトと言うのですが、そのギフトを送られたと心底思って生きている人はどれくらいいるのか気になります。「趣味が講じて仕事になった」とか「好きな事をしていたらそれが仕事になった」という話をたまに聞きますが、そのように思って生きている人はとても幸せな人だと思います。ただしそのような奇才な方もいつも楽しいとは思えないはずで嫌な時は必ずあるはずですが、それを乗り越えて初めてそのような神のお言葉を述べることができるのでしょう。金メダリストやノーベル賞を受賞した人が放つ言葉には含蓄があります。彼らが神からその天性を見込まれてギフトを頂いたのかどうかは定かではありませんが、少なくとも一般人よりは遥かに神に近い領域で仕事をしているからこそ名誉ある賞をいただけたのだと思います。
話がかなり逸れてきましたので日本一忙しいニートである島田紳助さんのハワイでの生活などを見ていると本当に人生を楽しく生きていらっしゃると思いました。もし自分がお金もあってニートだとしたら同じように楽しく生きることができるだろうかと疑問に思います。やはり仕事でも妥協を許さず突っ走ってきた人物だからこそニートになっても一流のニートであり続けることができるのではないかと思います。そのような一流のニートに私も早く隠居してなりたいと思いますが、まだなれそうにありません。まだ現在の私はギフトを究めていませんし、本当に自分にとって最高のギフトかという確信も持てないからです。天才でも凡人でもいずれはギフトから離れなければいけない時がやってきます。早ければ10年そこそこです。生涯現役と気持ちで思っても不可能に決まっています。その限界に達した時に喩えれば有名人が「燃え尽きたから」とか「情熱がなくなったから」と言います。体の衰えによる「肉体の衰えで」とか「今までできていたパフォーマンスができなくなったから」とはちょっと異なるような気がします。それでも近い将来引退した後に「俺も日本で二番目に忙しいニートや!」と胸を張って言えるほどのパフォーマンスをしたいものです。