世の中の普通の人は本音と建前を使い分けます。アメリカ大統領しかりです。トランプ候補が大統領選で訴えていた非難中傷は大統領当選後には影を潜めました。候補者としてのトランプ氏は自由奔放に好きな事を言う我儘な人にしか映りませんでしたが、当選してしまえば豹変してしまいます。これは本音と建前の典型例と言っていいでしょう。しかし今でもトランプ大統領の言動には本音と建前の境界線がわかりません。このように政治の世界を覗くと「理想と現実」や「本音と建前」などいろいろな表と裏が見えます。また毎日の日常生活でもたくさんの建前が横行しています。例えばお客さんからこれやってと頼まれれば嫌な事でも喜んでと答えます。心では面倒くさいと思っても顔には出しません。そのような積み重ねが毎日毎日更に積み重なっていきます。
いつから人間は本音と建前を使い分けるようになったのでしょうか?生まれたときは使い分けていません。しかし物心がついたときには子供は親に対して既に小さな使い分けをし始めます。それは「親の顔色をうかがう」という言葉が存在していることからも証明されます。母親から何か言われても物心がつくまでの子供は嫌なら嫌という素振りを示しますが、もう少し周囲の事が理解できるようになってくると自分の思うことを押し殺して肯定するような返事や行動を始めます。しかし全てがそうとは限らず嫌なことはまだ駄々をこねます。それが成人して仕事を始めると余程の重大事態でない限り上司にたてつくことはありません。社会に出ると上下関係が厳しい職場では黒だと確信しても上からの天の声が白だと聞こえたら白と言わなければならないこともたくさん出てきます。それが本当に正しいかどうかは二の次なのです。そのような社会にどっぷりつかっていると感覚が麻痺してきて真面な判断が出来なくなる場合もあります。そのようにはなりたくないと常々注意しています。「昔はよかった」という言葉は後ろ向きに聞こえるので嫌いですが、昔の自分だったら素直に嫌なことは嫌と言えた自分がいたことは間違いない事実です。歳をとればとるほどストレートな物言いが影を潜めて言葉にオブラートを包むようになります。それが良いことか悪いことかは別として本音を言えずに建前で体裁だけを繕おうとします。50年も生きてそんな自分になった姿を昔の自分が見たら「しょうがないよ」と言うのかそれとも「昔の自分がよかった」と言うのかは定かではありません。
建前は社会を生きていく上で必須のアイテムですが、これからもできる限り本音で生きていきたいと思います。なぜなら本音で喋る方が他人に対して自分を取り繕わなくて済みますので最終的には悩まないで済むことが多いのです。一方で相手とはいろいろと衝突も起こります。全てにおいて衝突することはありませんが、建前で生きていくよりははるかに増えるはずです。失言も多くなり嫌な思いも増えますが、自分を殺して心の中で不完全燃焼してわだかまりを残すよりも自分にとってはそのような不器用な生き方の方が結局楽な生き方ではないかと思っています。