学歴とは浮輪のようなもの

この言葉は京大卒の芸人ロザンの宇治原さんの言葉です。学歴社会と言われて久しいのですが、現在は以前よりは学歴にこだわらない社会になりつつあると思います。昔は大学の名前だけで就職内定が出ていましたが、20年前頃から大手のソニーやホンダが履歴書で大学名不要などと言い始めて学歴社会が少しずつ崩壊してきました。しかし現在でも東大など一部有名大学は十分に学歴が通用します。しかし学歴だけが全てでないことは世の中では周知の事実となっています。例えば我々医師の世界ならどこを卒業しようが医師免許さえ取得すれば関係なく働けます。例外として有名大学病院に勤務したいとか教授を目指したいなど特殊な目的の場合は学歴が必要条件となりますが十分条件ではありません。ほとんど医師にとって結局はあまり関係ないのです。

先日行きつけの飲み屋さんで私の友人と大将とでその話になりました。大将は高校を卒業するとすぐに京都の老舗京料理店に就職しましたので学歴という過去の記録では高校卒業です。一方で私の友人は慶応大学卒業で大卒です。料理人になるためには専門学校に通う人もいますが、昔なら丁稚奉公で見習い住み込みが多かったのではないでしょうか。腕を磨くためには学歴など不要で自分の努力でのし上がっていく下剋上の世界です。大卒で就職する場合には昔は現在と比較して有利だったことには間違いないでしょう。しかしその後の出世はやはり本人の努力次第に変わりありません。勿論、東大を出て高級官僚になれば学歴出世コースのスタートラインは一般卒の遥か先でその差は歴然として追いつくことは不可能です。しかしスタート後の競争はまた熾烈で少しでも油断すれば出世というレールから弾き飛ばされてしまいます。飲みながらかなり酔いも回っていましたので多分そんな会話をしたのではないかと推測しますが、定かではありません。ただ唯一覚えているのは学歴のある宇治原さんの言われた「学歴とは浮き輪のようなもの」という言葉です。

そこで本題なのですが、浮き輪とはどういうものなのかをまず考えてみます。浮き輪があれば初心者は溺れずに海に浮かんで泳げますが、あくまでも補助具であり、いつかは浮き輪を手放して自らが泳げるようになって荒波に向かっていくのが普通でしょう。しかしいつまでたっても浮き輪から離れない場合、泳ぐことはできてもなかなか独り立ちできずに進歩があまりないでしょう。つまりスタートラインに立つときは学歴は有利なものになり得ますがそれに固執するとかえって足かせになってしまうものが学歴だと宇治原さんは言いたかったのではないでしょうか。また最初から浮き輪なしに海に飛び込むのも料理人の世界ではあるかもしれませんが、それでも先輩の背中を見ながら必死でもがいて泳ぐ姿が目に浮かんできます。そして自分で泳げるようになったら独立もできます。現在は昔よりも複雑で社会で生きていくには学歴不問とは言いませんが、それに頼りっぱなしだとうまくいきません。学歴はあっても損にはなりませんが、過大な期待を持つべきものでもないのかもしれません。最後はその人の努力であって肩書ではないのだと思います。

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