外山滋比古氏の有名な著書に東大生が一番読んだという「思考の整理学」があり以前読みました。その著者の鋭く切れ味のある論説は面白くもあり東大生が好んで読むのも頷けました。それから5年は経過していると思いますが、たまたま書店で外山滋比古氏の著書で「知的な老い方」が並んでいましたので、何抜きなしに目に留まり前回の印象が良かったので購入して読みました。何でもそうですが、最初の印象が強すぎると次も過大な期待をしてしまいます。著書を読み進めていくと老い方についていろいろな切り口で「なるほど」と思うこともたくさんありましたが、今回は読んだ後に満足感というか充実感があまり残りませんでした。以前読んだ著書の評価が過大評価だったのか?または今回の著書が過小評価なのかはっきりしませんが、事実そのように感じたのです。ざっくりと言えば、老い方にもいろいろあって外山氏の考え方は肉体的な老いと精神的な老いは別物で工夫すれば老いてこそますます盛んに知的な事ができるという内容でした。その主張は全くその通りで否定しません。しかし読んだ後にあまり心に残らなかったのです。なぜそうなのかと考えたのですが、何となくわかったことがあります。それは自分もこの5年老いながらこれから先の20年をずっと考え続けてきましたし、いろいろな本も読みました。そして実際に経験したことも多くあります。それが思考の中で整理されて記憶として残ります。5年という歳月の経験値レベルが以前に「思考の整理学」を読んだ当時のレベルよりも上がっているために、昔よりも感激の閾値のハードルが高くなかったのではないかと思います。何も考えていなかったら読むもの全てが新鮮で感激をしますが、自分の中であれこれと思考を整理していくといろいろな著書を読んだ時に未知のキーワードのみが強烈な印象として残りその他はスーと頭に入ってきてスルーして抜けていく感じでしょうか?読み進めていくとふんふんと頷いて「そうだよな」と共感を覚えることが多かったのですが、一方で新たな発見はあまりなかったのだと解釈しました。つまり「私の思考もこの5年間でかなり成長していたのだ」と感じたのです。
ではここからが本番で「自分にとっての知的な老い方とは?」一体どういう風なものなのかをまとめてみたいと思います。「知的な老い方」とはいかにも難しく思えますが、簡単に「よい歳のとり方」と言い換えてみます。そうすると一気に「俺だったらこのような歳のとり方をしたい」なんてことがどんどん湧き出てきます。必ず肉体は衰えますから老いと肉体は反比例します。しかし精神は老いとは逆行して経験値を伴って老いと正比例していきます。もし老いと精神が比例しないのであれば歳をとってもずっと心は少年のままという童話の世界に入り込んでしまいます。勿論、認知症や脳梗塞などの病気は除外してあくまでも健全な場合に限ります。敢えてこの場では「知的な老い方」関する解答は書きませんが、具体的な処方箋はこの著書にたくさん出されています。しかし「自分の残りの人生で何をしたいか?」と考えれば誰にでもたくさんの正解が湧き出てくるはずです。