小中学生の夏休みの課題で読書感想文があります。これは我々の時代からずっと続いていますので時代を超えた素晴らしい課題と言っていいのかも?しれません。学校によっては冬休み明けも夏休みに続いて読書感想文があります。年に1回の夏のみであれば「仕方ないな」とあきらめて子供にサジェストしながら書かせるのですが、年に2回もあった日にはちょっと一言余分に物申したくなります。それは私の家内も同じ気持ちのようですので一概に私だけの読書感想文への偏見ではないようです。
まず「本」というものが存在して、それを人間は読みたいと思って読み始めます。上から目線で「この本を読んでみよ」と言われた日には仕事の資料で仕方なしに読むことはあってもましてや、「その本の感想を書け」と言われたら「読みたくもないのに感想文まで書けるか!」と無味乾燥な感想文になるのが必然ではないでしょうか?「好きな本を読んで思ったことを書け」ならまだ書ける可能性もあります。しかし読みたくもない本を指定されて感想文を書けと言われても当時の私も小学生ながらおかしいなと思っていました。そりゃあ本が好きでちょっとませた女の子ならいつの時代でも県のコンクールに入選するのも簡単なことでしょう。しかし「文字が苦手で国語嫌いで人生経験も浅くおませでもない私がなぜ読書感想文を書かないといけないのか?」と当時から大いに疑問を持っていましたので、自分の子供たちが読書感想文嫌いな気持ちがとてもよくわかります。むしろ強制することにより更に国語嫌いになり、挙句の果てに日本語嫌いになるかもしれません。実際に10年前までの私が国語嫌いで読書嫌いだったので実感できるのです。「では今はどうなのか?」と聞かれれば、読書嫌いでも感想文嫌いでもありません。しかし読書感想文を書けと強制されれば「そんなの無駄」と言うでしょう。なぜなら「感想文を書け」と言われて書くのではなく、読んだ後に感想が自然に心から湧いてくるものです。湧いてこなければ小説と一緒で「あー、面白かった」で終わってしまうのではないでしょうか。
ではなぜ10年前から読書を始めたのか?それはやはり「必要は母」なのです。人生でいろいろな困難にぶつかった時に自分の考えでは到底及ばないことが多々あります。その時に過去に同じ気持ちになったことのある人の考えを知りたいと思います。そして私が尊敬する齋藤孝先生が「読書とは過去の作者とその本を通して会話することだ」と書かれていたのが本当に腑に落ちてから読書が好きになっていったのです。そしてブログを書き始めてからわかったことは感想文でもなんでも文章を書くということは「自分の文章を通して読み手である相手と会話するのだ」と思えるようになってから書くことが全然苦にならなくなったのです。国語嫌いの子供たちにそれを言葉で伝えてもわからないでしょう。どうしても必要になったときに初めて自分で身に染みてわかるのです。それまでは読書感想文の強制はやめて好きな本を読ませることが大事です。全く本を読まないのはいささか問題がありますが、読書感想文を書かない自由があってもいいのではないでしょうか?