今年わが母校東京医大が創立100周年を迎え先月には新宿で記念式典がありました。そして先月末には定例の東京医大山口県人会が新山口駅前のホテルで開催されてはるばる東京から同窓会長の恩師が来県されました。また100周年記念事業として東京オリンピックの前年春に現在ある東京都庁のそばの病院敷地に地上20階建ての新病院が完成予定です。そのためにささやかながらの寄付をさせていただきました。そのためかどうかは定かではありませんが、月刊発行の東京医大新聞に寄稿依頼が来ました。800字以内といういつものブログよりは少ない字数制限の中でどのように思いを込めて書こうかと推敲の連続でしたがようやく完成し先日メールで送付しましたので今回は再編集の上改題して掲載です。
~昭和57年3月下旬に東医から自宅に1本の電話。浪人を覚悟していた私は広島で予備校のテストを受けていた。呼び出しを受け電話に出ると「繰り上げ合格が来たが東京に行くか?」との父親の一言から私と東医の偶然の出会いがスタートする。
地元国立と試験日程の合う東京の私立医大を3校受験してダメなら浪人くらいの気持ちで半年前に試験日程と偏差値とで合致したのが東医でした。同窓の志ある先輩先生方には誠に申しわけなく思いますが、それが東医を知った経緯です。田舎しか知らない私が想像していた新宿にある東医は「太陽にほえろ」で西新宿の歩道橋を新米刑事が超高層ビル群を背に走るあのイメージでした。右も左もわからぬまま入学式。バレー部の顧問でもあった大高学長の式辞もあり緊張もしましたが、その後に同級生たちと偶然の出会いが始まります。出席番号の前は青森出身で後ろは東京の友人。そしてバレー部に入部しなかったら絶対に会話を交わすこともなかったであろう金沢と東京の友人。彼らは今の自分を育ててくれたかけがえのない友人だと確信しています。学生時代は小心者でしたので授業にはわりと真面目に出席していましたが、勉強はあまりしませんでしたので試験では苦労してかなり追試を受けた記憶があります。しかしクラブ活動は真面目でした。酒を飲みながらどう練習すれば東医体で勝てるかという夢をよく語り明かしていました。そして70周年を迎え現在の大学病院が新病院としてオープンしその中でポリクリをさせていただきました。
東医を離れて山口に戻り28年。100周年を機に東医との偶然の出会いが再び芽生え始めました。子供も将来ご縁があったら世代を超えて偶然の出会いがあるかもしれません。東医で青春を過ごしたあの素晴らしい時をもう一度世代を越えて。現在の私の土台を築いてくれた東医に本当に感謝です。東京医大100周年おめでとうございます。できれば130周年までは見届けたくがんばりたいと思います。~
以上の原文の文字カウントは約800字の範囲に収められました。今回の寄稿を書きながら母校に対する想いや青春時代の東京での6年間がたくさん脳裏に蘇ってきました。同級生の皆がそれぞれの地上のどこかでがんばっているのだろうと思うと自分も負けてはいられないという思いが沸々と湧き上がってきました。