久しぶりに5人揃って、長女に言いたかったこと

昨年末の大晦日のたったの3時間ですが家族5人が皆揃いました。長女の予備校が新年からの受験ラストスパートを迎えるにあたり午後の数時間だけ昼食を食べたりできるリラックスタイムを設けてくれたのです。勿論今までにも三者面談などに行っていますが、子供を連れて行くわけにもいきませんでした。しかし今回は激励の意味も込めて皆で行ったわけです。自分では浪人生活は体験していませんのであまりわかりませんが、少なくとも家族の中では一番充実した1年を送っているはずです。

以前にも書きましたが、何事でも目標に向かって一心不乱でがんばる姿はとても素晴らしいことだと思っています。たとえそれが成功せずともと言いたいところですが、さすがに受験ですから失敗すれば再度浪人して目標を目指すかそれとも目標を修正して妥協の人生を歩むかです。どちらも正しい選択肢ですが、受験生本人にとってみれば後者は敗北で現時点ではあり得ない選択です。しかし何十年と過ぎて私たちのようにこれから死ぬまでに正月の来るであろう数が後ろから数える方が早いと思うようになったときに初めて、たとえ後者を選択してもその残りの人生が半世紀もあれば前者の選択よりも更に素晴らしい人生に変えることができるかもしれないと後になって思えるようになるのです。ただ皆その時は絶望の淵に立たされてそんなことは思えないし、その後もその悪夢を引きずって生きていく人も多いわけです。しかしそこで「なにくそ、負けられるか」と思えば人生もまた開けてくるのではないかなあ。だからこそ一生懸命やってその結果が報われるに越したことはないけれど、仮に報われなくて後者であってもそれも選択肢なのだということを彼女に話しました。それはそれなりに家計にも余裕があるから言えることで贅沢な我がままと批判されるかもしれません。しかし前者が本当に成功者かどうかは残りの人生が短くなった私でさえもわかりません。周囲から見れば成功者と思われていようとも、自分の中では常にいや何かが違うと思いながら生きてきました。何が違うのかはわかりませんし、今までの自分の頑張った人生を否定するのでもありません。むしろ前者を選択して頑張ってそれなりの結果を出した自分を褒めたいくらいです。しかし何かが違うとこの歳になって思うわけです。なんとなく50年も生きているとわかってくることもあります。それは決められたレールに乗って走ってきたこと、そして分岐点でもあらかじめ予測してどちらがベターかを判断してきたこと、今までの人生が自分の予想通りに段取りよく安定走行して来たこと、それが逆に自分の中で過去の分岐点で反対に行った方が困難かもしれないけど今とは別の人生があったのではないかと思うわけです。それが結果として正解かどうかは別として。だからこそ長女には前者が成功で後者が敗北ではなく、どちらを選択してもそれは神様が与えてくれたチャンスだと言いました。この歳になってもずっと夢は持ち続けたいし、仮にもう一度人生をやり直せるなら小学高学年の中学受験までリセットして今と全く違った人生を生きてみたいなと思うのです。

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